1974年の渡欧時のお話です。
フランスで1975年1月20日に発売された「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(モナ・ムール・ジュ・ヴィアン・ドゥ・ブ・ドゥ・モンド)ですね。一度録ったにもかかわらず、発音がなってないから、また練習しなおせと言われ・・・のエピソードを語っておられます。
続いては、海外で発表された沢田研二のアルバムということでね。
なんで海外で出せたかというとシングルが売れたんですよ。
それも、ロンドンはダメだったんですよ。
ロンドンはね、システムが複雑というか変わっていて、ある程度ラジオでかけて人気が出てこないと店頭に並ばないという。だから店頭に並ぶまでいかなかったということなんですよね。
で、同時期にさっきも言いましたが、パリでフランス語でレコーディングした。
その時に忘れもしないミキサーの人が「売れないと思うよ」って言ったんですよw
本当に(笑)
「なんて言ってるんですか?」って聞いたらね、「売れないと思うよ」って言いやがってね。そしたら売れたんですよ。
で、フランスのラジオ局のRTLっていうラジオ局のベストテンでね、4位までいったんですよ。4位に入るってすごいことですよ。外国人がですよ。KENJI SAWADAですよ。
それがましてや曲がね、すごいんですよ。この時の曲の題名っていうのが
「私は世界の果てからやってきた」ですよ。
どう思います?
邦題では「巴里にひとり」って言ってますがね。それぐらいに言うわけですよ。
だってね、フランス人なんかは日本に行くということが現実的ではないわけですよ。
で、その頃飛行機がアラウンドザワールドっていう飛行機もあったりもしましたけど、やっと北回り・アラスカ経由で行っても27時間かかる頃で、「1日でおまえたち来たのか?」って言われるわけですよ。フランス人には。「エッ!?いつ出たの?今日もう着いちゃったの?」って。で、今度帰るって言ったら「どうやって帰るんだ?」って必ずフランス人は言うのよ。「いや、アラスカへちょっと・・・」「アラスカへ何泊するの?」って聞かれるわけ。「いや、トランジットだけです」って言って(笑)すぐ乗って帰る。「クレイジー」だって。まあ、フランス語ではクレイジーとは言わないけどなんか言い方があるんですよね。そういう言い方をされて、「信じられない」ってことを言われるぐらい。
だから日本に来る、日本に行くというのもその途中でいろんな所に寄って楽しむというのがフランス人的な考え方で、日本人みたいに、ましてや僕なんかw
「時の過ぎゆくままに」を歌っている時に”歌謡大賞”というのがあって、「帰ってこい」って言われて、帰っていって歌って、本番で歌ってですよ、8時からの番組で、仮眠取って、夜の便に乗ってフランスまで帰ったんですよ。そしたら「おまえ、死ぬぞ」って言われてね(笑)本当に死にそうだったですけど。でもそれをやったのは売れてたからですよ。フランスで売れちゃって。
誰が一番喜んだかというとね、それまで日本人といえば「エコノミックアニマル」という言葉が流行っていて、旅行者はグレーの背広を着て、たすきがけに鞄とカメラを持って、ほとんどの人がメガネをかけててみたいなそんなことを言われていて、知っているものといえば、バイク、テレビの機械とかそういうものがしかなかった。文化的なものが一切なかった。
その時に、たかがポップスですけど、日本人が歌う歌がフランスで売れているっていうので在フランスの日本人の人が一番喜んでくれたんですよ。もういろんなところに生でやっているというとね、ラジオとかの番組に出ているとね、どこからともなくそれを聞きつけてやって来てね、もう明らかにわかるんですよ。「沢田さんですか?」って声をかけられるんだもん。それが僕らは一番うれしかったですよ。「そうです」って。「私パリに何年も住んでいるんですけど、こんなこと初めてです」って言ってもらって。「それまでは日本人のイメージはこうだったけど、やっと文化的なことで、それもフランス人の中に混じって歌ってもらうのがうれしい!」って言ってくださって。
でも、売れたのは最初の一曲だけですよ。
それもフランス語のレコーディングが大変で。
ロンドンで「愛の逃亡者」とかやっている頃に、フランス語でも録音して。
で、フランス語はシングル一枚だけ作っていたんですよ。で、イギリスではアルバムを作っているわけですから、またフランスでレコーディングし終わって「ああ、やっとできた」。また喜んでくれて、担当のミッシェルっていう担当の人が喜んでくれて、ミッシェルにはフランス語として意味が通じたんでしょうね。 だから、僕らが日本人だと例えば欧陽菲菲さんが「小ぬか雨降る御堂筋」って(正しい発音じゃなくても)聞こえるのと同じようなことだと思うんですよね。
ところが、ミッシェルは聞こえたんだけど、部長さんがノーを出したんですよ。それもレコーディングをしているイギリスのスタジオに電話がかかってきて、それを(渡辺)美佐さんが取ったわけですよ。「ミッシェルから電話がかかっている」と。「こういう話なんだ。もう一回来て練習する気はあるか?」ですよ。「もう一回録音しなおせ」じゃないんですよ。「もういっぺんフランス語を練習する気はあるか?いや忙しいのはよくわかっている。日本のファンが待っているのもよくわかっている。スケジュールをなんとか都合をつけてもういっぺん戻って来て、もういっぺんレコーディングができるかどうか練習をしてみる気がないか?」と言っているって正確に伝えてくれて。
僕なんかヘンクツな男がですよ
ここで帰っちゃ沽券にかかわる。澤田家末代までの恥になる。
せっかく来たのに、フランスでレコードを出せずじまいで帰るのはイヤだと思って、その時に加瀬さんに「どうする?」
加瀬さん:どっちでもいいんじゃない?(加瀬さんらしいww)
加瀬さんは例によってね、すごく優しくそういうね「どっちでもいいよ」って言ってくれるからね、僕なんかますますヒネクレ者としてはね沽券に関わるから絶対(フランスに)帰ると思って帰っていってね。
忘れもしない、ピガールの上のほうにポリドールのスタジオがあったんですよね。事務所があってそこのところにミッシェルさんが「僕には聞こえるんだけどね、やっぱり初めて聞く人には何を言っているのかわからない。ってことなんだ」(笑)
さあ、練習がはじまりました。で、15分おきにその部長さんが見に来るわけ。
見に来て、黙って出て行ったりするわけよね。
それでもう一番困ったのがね、(発音で)一番多いのが「ジュ」っていうのが、僕今もちゃんとできませんよ。「Je」と書いて「ジュ」とかね。何回も何回もやらされて、何回やってもコツがわかんない。で、自分の中ではカタカナで「アールは〇をつける」とかね「エルは〇をつけない」とか、そんなやり方をやってたんですけど全然><
「おまえのニックネームはなんだったっけ?」「ジュリーだ」「それでいいんだ!」って言われたってずっとそう言ってるよ僕は💦って。
「日本へ帰りゃね、人気すごいんですよ」って思いながらさ
もう本当に泣きましたよ😢
それをずーっと加瀬さんは、ピアノのところに座って
「イヤだったらやめていいよ💗」
また言ってくれるわけよw
加瀬さんがそんなふうに言ってくれるから、「いやそれじゃあ困るでしょやっぱり💦」って言ってもうヘンクツな私としては、ヘンクツがいいほうへ向かっていくんですよね。シンドイほうへシンドイほうへ向かっていくんですよ。いわば、正しいほうへ向かっていく。
それでずーっと一日やって、やっと許しが出たのが、「明日もやってみよう」ですよ。「明日も稽古してみよう」ですよ。
ああ・・・・泣きましたよ私・・・
日本帰ったら、ジュリー💗と言われて、すっごい人気なんですよぉぉ~~みたいなw
若かったしね。
それで、結局、また再録音をさせてもらいました。出ることになりました。
で、帰り際にね、その人が「売れると思わないよ」って言われてミキサーの野郎😡って思ったけど、そうだよな・・・きっとフランスの人にはフランス語としては聞こえないんだろうな。なんかエキゾティックな感じというかどういうのかジャパネスクとして聞こえちゃうんだろうな・・・それがどう出るかだよね。まあダメだろうなあ。と思って日本に帰っていたら、
売れたから来い!
ってかかってきた時には、そらうれしかったですよ
もう、その苦労は報われたと思ったし、あの時の人はどう思っているんだろうと思って、「売れると思わないよ」って言った人は(笑)
それからもうフランスのスタッフにも、とにかく売れたもんだから、「半年は日本にいてもいいけど、半年はパリにいろ」とか言われてwその頃に「パリの哀愁」って映画を撮ってたりなんかしてまた行く機会があったりなんかしてずっと居ろとかw
で、その「パリの哀愁」っていう映画もフランス語使うんですよ。だってクローディーヌ・オージェさんなんかと喋るんですもの。恋人同士の役なんですもの。
喋るんですよ。ジュテーム💗とか言っちゃうんですよ。
それでちゃんと現地に住んでいるフランス語を喋れる人がちゃんと通訳をしてくれて、フランス語も教えてくれてって、そうなったらフランス語もうまくなっちゃうんじゃないかって、その部長さんにも言われたりなんかして、「君は日本のファンも大切にしないといけないけど、パリのフランスのファンも大切にするべきだ。半年間はパリに住みなさい」って手のひらを返したみたいにすごい歓迎されたんですけど。
そのあと3枚ぐらい出しましたけど、全部鳴かず飛ばずだったですけど、最初の出会い頭だけ。
ま、そんなこともあったんですけどね。
でも、フランス語で歌うというのも、すごい難しかったけど、あの時の苦労も無駄にはなってないかな。なんて思える今日この頃でございます。
そんなことで、聴いていただきましょうかね。
ところどころね、すっごい難しい発音がありますからね、よく聴いてください。
よく聴いてもわかんないか(笑)
「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE(巴里にひとり)」です。
この頃のお話の期日って、たぶん1974年の8月31日~9月21日の間、ロンドンとパリに行かれていた頃だとは思うんですが、多少話がゴチャ混ぜになっている感じが(^▽^;)いや仕方ないことですが。
歌謡大賞のエピソードは、ファンの間では有名な話で、私がファンになって間もない2009年の大阪でのトークショーでもう少し具体的に話しておられますw
別のMyブログより。
1975年は「時の過ぎゆくままに」か「シクラメンのかほり」かで。またまた発表前にみんなからいろんなコト言われてまたまたその気にさせられて^^;
友達を呼ばれたりするわけや。
「時の過ぎゆくままに」では(大賞の)衣装も作っとったのw
友人も来とるし・・
ちょうど「パリの哀愁」という映画を撮ってたのに、渡辺プロの制作部長が「帰ってこい」って。取れるわけないがな~
こっち(パリ)では「取れるわけないやん」と10回言われたけど、その制作部長が「取れる」って11回言ってくれたからw
ノミネート発表の時に、午後パリから成田に着いて京王プラザホテル行って歌ってちょっとホテルで仮眠してパリ戻って。
(ジブンのと別の方のブログによると、11月3日、午前11時20分羽田着~夜10時半再びフランスへUターンやったそうな!!)
そーいう努力が審査員の心をグーッとつかむからって
と、見事にノセられとったジュリーやけど^^;
ジャ~~~ン(シンバルの音も真似るジュリーw)
「シクラメンのかほり」に決まりorz
ど~いうこっちゃねん!
布施さんの顔見たら布施さんも俺の顔見て・・・
(お互いポカ~ンと見つめあうマネwきっと布施はんもジュリーが取るやろって思うとったんやね)
そして被害者wの友人達も
僕に見つからないようにあの時取るって言われたから行ったのに~どーいうことやねん!って(+_+)
失礼ながらwww
しかしながら、このエピソードは今の沢田さんにも通じるというか、
シンドイほうへシンドイほうへ・・・
言い換えてみれば、たとえシンドくても自分の納得できるほうへ納得できるほうへ
と言えるんでしょうが。
全然変わっていないなあなんて思ってしまいますね。
そりゃ、歌っているところを配信したり、タローさんやピーさんのように小さい箱でお客さんを満出ない感じで入れてやろうと思えばできるんでしょうが、それは自分が納得できないからやらない。というね。
ふりかえってみれば、それでよかったんだと思えるわけです。自分が決めた道だから、たとえいい成果が得られなかったとしても後悔しないみたいな。
そういう生き方、憧れます。。
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