ザ・スター 沢田研二 1

JULIE
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職場再び休暇になる前、ふと、夜ヒットのDVDを見たくなって見だしたんですが、76年の「コバルトの季節の中で」を歌っている時、そして「さよならをいう気もない」の金キャミで歌うジュリーを見て、この頃のことを改めて以前に買った「ザ・スター 沢田研二」でふりかえってみたいと思ったんですね。


今ならきっと入手困難なんでしょうが、
(今みたらアマで25000円しとりましたし🤪)
買えたというのは、ウン千円の手が出る価格だったのでしょう(いついくらで買ったかはとっくに忘れましたw)
ただ、これで一文載っていた「へえ、ジュリー豊岡でライブしたことがあるんだ!」という感激から後の2010年の豊岡公演だったので、きっとそのころに買ったんでしょうね。

見開きなんできちんと撮れませんが

こう取り上げていくぞ!という気持ちではおりますが、
動画編集の仕事などでまたまたできない、あるいは気分的に(笑)ということもあるかもしれませんのでご了承ください。

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第1章 飛翔前夜

話した人 沢田研二<1976年1月9日>

ああ東京駅で

 まるで夢遊病者のような体に弦の響きがここちよい。飛行館1スタジオはバイオリン、チェロ、ビオラの音が渦巻き、睡眠不足の脳細胞をうまいバランスでシャウトさせる。
 大阪フェスティバルホールの正月公演を終えて東京についたのは2時間前、明後日(6日現在)からの日劇公演の弦合わせを急いでいる。順調な仕上がり。14時から22時まで用意したレッスン時間もこの分ではおつりが出るに違いない。歌と弦が一曲ずつ完成されるたびに、ぼくのどこかで溶けてゆく何か。
 その感覚は去年の暮れのぼくにも似ていた。

◇東京駅事件の記事◇

 今月(去年12月)の7日午後9時半ごろ、名古屋での公演を終えた沢田研二が、新幹線のひかり116号で東京駅に着いたところをファン約40人がとり囲み、それを見ていた東京駅のプラットフォーム掛、●●さんが「くだらないヤツらだ」と口走ったことから口論となり、カッとした沢田が、●●さんに「くだらないとは何だ」と、頭突きをくわせたーー(スポニチより)

結果、駅員さんがケガをしてしまい、(私の持っている資料では鼻血を出して大騒ぎしたとか)ジュリー側が5万円の治療費と慰謝料を払って示談で解決されたそうです。

ただ罪に服従

 つめかけた記者団、TV局プロデューサー、レコードディレクター、知人、友人・・・何らかの形でぼくとファンとの間に立っている人は、ファンを代弁するがごとく、あるいはぼくをかばうがごとく事件発表以後の日々、様々な言葉を残していった。
 あたりまえのことだが、それらの人々はぼく自身ではない以上、ぼくの本意とは微妙にくいちがった。
 いわく<運が悪かったな><歌手ともあろう者が手を出しちゃいけない><ファンのためにやったことだ、気にするな><人気歌手の思い上がりだ><沈黙を続けろ>etc。そしてぼく自身が検事の前でいった言葉<たとえなぐられても二度となぐったりしない>も、実に己にとって不十分なものであった。
 今、一点大きな過ちがぼくと様々な言葉を残していった人々に問われているのがわかる。事件は芸能人であるぼくの立場を中心に運ばれていった。
 デビュー当時、先輩歌手がしたり顔で教えてくれたのは「サインひとつにしてもマネージャーが断るのだから、ジュリーはすべてを任せていればいい」という特権的芸能人の優越感、もしくは永遠に廃業の人形でしかない悲しい宿命だった。その時、ローティーンのぼくをかすめた熱いわだかまりは、今ははっきり若さのせいでもなければ、わがままでもなかったことを証明させる。
 ぼくの怒りはぼく以外の誰のものでもなかった。そして怒りの発露として及んだ暴力行為はまぎれもなくぼくの罪だった。怒ったことが人間としての感情なら、罪もまた人間として受けねばならぬ摂理であった。神聖なる裁きの前に人間としてひれふす沢田研二を人々にただみつめて欲しかった。
 起訴猶予--この結果を人々が歌手としてジュリーとして様々な思惑でみたとしても、ぼくはせめて人間として受けとめなければならない。

瞬間に起こった感情っていうのは、理由がないんですよね。理由を考えている暇はなく、純粋に自分の気持ちから沸き起こったもの。だからその時もジュリー自身、なんで怒りの感情が抑えきれなかったのか正直わからなかったと思うんですよ。失礼な駅員だと思った、ファンをかばいたいと思った・・・それとも違って。
もしかして、その日は朝から気分が悪かったかもしれない、テンションが上がらない、誰でもあることで。。。いずれにせよ一切弁明せず、「ぼくの怒りはぼく以外の誰ものでもない」だから、粛々と罪を受け止め、皆はただその経過だけを眺めているだけでいいという潔さがジュリーらしいなと。

今だってそうですが、人間、あるいは延長線上の組織、誰にだって失敗、失政はあります。
ただそうなった時にどう対処するかで後の周囲の受け止め方が、見られ方が違ってくるんですよね。

長い2時間55分

 白い視線が感じられる。スポットライトを受け、観客席は目つぶしになって見えないはずなのに、そいつだけは胸につきささる。やはり負い目がそうさせるのか、あの日以来見せ物になっている被害者意識がつきまとう。時間がこんなにも長い年の暮れはない。拍手が少ないわけではない。
「歌手は手を出しちゃいけないというので頭を出したらこんな事件を起こしてすみません」てれかくしにいった冗談に、わるびれない笑い声が返って来ても、笑えない青い顔の自分。あと今年は何日なんだ!?
12月31日、今日で終わる。いや終わらせてみせる。レコード大賞の音合わせは朝8時50分から行われた。あと15時間。それでジュリー、変わるんだ・・・・・。午後8時「レコード大賞歌唱賞発表!」一瞬緊張感がみなぎる。このノミネートされたシートから立ちあがって再びステージに登ることが出来るかジュリー。五十音順に呼びあげられる歌手の名。五木ひろし、小柳ルミ子、南沙織・・・落ちた。
 握りしめていたこぶしが力なく弱まる。かみしめた唇からは、むなしさよりも何かがひとつ崩れ落ちるのを確認したような、安心にも似た吐息がもれる。そしてまた飛び立つスペースが開けたような空白。
 午後9時5分、NHK紅白歌合戦会場、あと2時間55分、出場者入場行進。頭によぎるのは、この日までNHKに寄せられた「なぜジュリーを紅白にだすのか!」の電話の嵐。それもこのステージでぼくらしく歌うことでしかぼくは弁解出来ない。運命の一曲、最後の一曲。・・・!?予想とちがう。ステージはもっと暗くならなければならないのに、この衣装に飾った電飾は、もっと光り輝かなければならないのに、どうしてだジュリー。錯覚なのか!?光れ、ジュリー。そして終わる。

これ改めて読んで、ファンやっていて不覚だったのは😅
1975年12月31日のレコード大賞や紅白歌合歌っているジュリーをそういう気持ちで見ていなかったことですよね。ああ、こんな気持ちで歌ってたんだと!

言う必要のないことは言わないですし、表情にもまったく出てないので、気にしてない・・・といえば実はメッチャ気にしているというのが彼のご性格ですからwこの時もメッチャ気にしながらステージに立っておられたということが文章からありありと出ていますね。

「時の過ぎゆくままに」という名曲であるにかかわらず、レコード大賞の候補にはのぼっていましたが最優秀歌唱賞のみならずレコード大賞も逃してしまったことは、やはりこの事件が原因なんだろうなと推察されますね。

そうか!この衣装は電飾だったのか!と、よく見たらチカチカ🌟してますわ・・今更気づくワタクシ・・・
これもまたファン失格・・・あ~あ( 一一)
しかも歌の後半のほうで光具合が変わってますからね、1975年にすでにこういう技術ってあったんですね。へえー

本文に戻りますれば、
予想とちがう。ステージはもっと暗くならなければならないのに、この衣装に飾った電飾は、もっと光り輝かなければならないのに、どうしてだジュリー。錯覚なのか!?光れ、ジュリー。そして終わる。

こんなことを考えながら歌われておられたとは・・・
ステージはもっと暗くならなければならないのに、というのは自分はもっと光り輝くべきはずなのに、という対比ですかね。ステージ、衣装、我々の目からは間違いなく煌びやかに映っているんですが、内面はそれにそぐわない自分が歌っているという落差というのでしょうか。

時は流れ76年

 すべてが溶けてゆく。1976年午前零時、時の流れが目に見える。もう恐れない。飛び立つ羽を広げれば、今年の太陽はさらに赤く昇る。

「すべてが溶けてゆく」というのはジュリーらしい表現だなと思いますね。
75年の年末は散々な気持ちで終わったけど、76年になり、心機一転!がんばろうという決意が伝わってきます。

その76年ですが、またアレをしてしまい💦結果的に賞という面では不運には終わりましたが、もしかしたら今でも「沢田研二はスターだ」と言わしめる原点になった年かもしれませんね。運が悪い運が悪い、そこだけを見ていたらだめで、物事は時間をかけて大局的に見ないといけない。
沢田さんの人生からはそんなことも改めて教えられます。

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