1986年 Living BOOK 7月号

JULIE
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すてきな人・ロングインタビュー

沢田研二さんが、ある種の危機感をおぼえ、事実上の『休養宣言』をしたのは、1年半前。一昨年の大晦日の『紅白歌合戦』に出場したあと、TV、ステージから、その姿を消した。
それまでの沢田さんは、病気のとき以外はまとまった休みもとらず、芸能生活というマラソンレースをあたかも100メートル競走のスピードでひた走ってきた。そんな彼が自分自身の決断で休養をとった。その間、焦る気持ちを迎えて、いままでの自分を見つめ直し、将来をたぐりよせていたのだろうか。そしてタイガース以来18年にわたり所属していた渡辺プロから独立、タレントは沢田さんひとりというプロダクション『CO-CoLO』を設立した。去年9月には独立後初のアルバム『架空のオペラ』を発表。その後、萩原健一と共演した映画『カポネ大いに泣く』の舞台あいさつの席に髭ヅラで登場し、「仕事ください」とやって、いあわせた報道陣を煙にまいたりもしている。清涼飲料水のCMで流れているシングルレコード『アリフ・ライラ・ウィ・ライラ』では歌声は聞けるものの、私たちが沢田さんの姿を見る機会は少ない。
いったい我らがスーパースターに何が起きているのだろうか。

ボクは流行だとか、流行ってる場所って興味ないんだよね

雨のやたら降る午後。東京湾を広く見渡せる三浦半島のとある場所に足を運んだ。
そろそろ雨が“なたね梅雨”と呼ぶ雨から“五月雨”と、その名を変えるころかなぁ・・・などと、グレーの色をした、目の前の久々の海を眺めながら思う。そして凡人はつい、“雨が降っていなければ、ブルーの海がさぞ素敵だろうなあ―――” などとも思ってしまう。
「もう10日ほど、ここにいるんだけど、ほとんど天気悪くってネ。雨。
 でも、ずっと天気悪いからいいナ、とか思ったりもしているんだけどネ。
 気分は良くないけど、ボクら、リゾート地風な音になっちゃマズイから。
 やっぱり熱い!というよりも、クールなほうがいいし、暖かいよりも、
 ちょっと寒々とした音のほうがいいだろうと思ってるし―――」

とは、沢田さん。なるほど、ごもっとも、である。
4月の半ばから、新しいLPのレコーディングのため、三浦半島、観音崎で男ばかりの合宿中。レコーディングの時はいつもそうであるように、10日間分のぶしょう髭とメガネ、そして白いコットンのシャツにジーンズと、いたってラフなスタイルである。

「最初はね、パリにレコーディングに行こう、って言ってたんだよネ。」

なんでパリ?と思ってしまう。

「そこがミソ。ボクは流行だとか、流行ってる場所とかって、あんまり興味ないんだよネ。
 レコーディングをする時に、なにがポイントになってくるかっていうと、
 自分たちが音を出しやすい環境であればいいということだけ。それでアチコチと場所を考えて―――。
 ヘンにイマ風なところには行かないでおこうと言うんで、で、パリにしようかって。
 パリって言ったら、きっとみんな“なんでパリなの?”って言うだろうから、イイナなんて思ったりしてネ。
 ニューヨークとかロンドンとか言うと、“元気なんだな”って言われるかも知れないけど、パリって言うと、なんだか元気があるのかないのかわからないみたいな、そんな感じあるでしょ。
 そういうのがいい、なんて思って。たわいないワケ。」

でもなんで、そのパリから、いきなり今度は、三浦半島、観音崎になってしまったのか―――。

「“飛行機、嫌いだ!”って人が、メンバーの中にいたの。だから要は海外はダメ、と。
 でいろいろ考えて、東京のビルの中のスタジオにいるよりも、たとえば海が見えたり、潮風に匂いがしたりとか、そういうほうがリフレッシュされるでしょ。
 ちょっと環境が違うとネ。
 それでここにしたの。海がそばだし、それになんたって名前がいいじゃない。観音崎なんてダサくってサ。」

と、海を見ながらの話が始まった。

以前は、いろんなところに出過ぎなくらい出てて、パワーもあったけど、消耗も激しかったと思う。

「1年くらいじゃ、なかなか結果なんて出るもんじゃないから、
 吉と出たか凶と出たかなんて、まだわからない。
 それより、とにかくそういうのとは別に、いまは世の中の動き方が早いからそういう動き方にのせられないようにって、マイペースで、この1年、過してきたみたい。」

その沢田さんが去年、渡辺プロから独立して、はや1年の時間が過ぎようとしている。やはり、なにかが変わったんじゃないかと、はたまたここでも凡人は性急に思ってしまう。

「モチロン、違ってきてる点はいくつかあるヨ。たとえば、以前の仕事の仕方っていうか、作成時間。
 それはもう全然違ってるよネ。だから、ものを作ったりとか、こういうレコーディングとか、ステージとか、そういうものに充分時間をかけてやってる。
 以前に比べたら、人の目に触れるというのがまだまだ少ないんだけど、
 それは決して焦燥感にはつながってはいない。
 以前は、そういう意味では、出過ぎなくらい出てて、パワーもあったわけだけど、その分、消耗も激しかったと思うよ。
  だから、この1年はいろいろな態勢を立て直して、ジックリとやってるって感じ。
 いまは本当の意味で、まだスタートしたばっかりだから。
 そのうち少しずつ、人の評価も伴ってくればいいと思ってる。」

そんな意味からも、今回のレコーディングは、自分にとって、とても大切だと言う。1年たった今、本当にその真価が問われるだけについつい熱が入ってしまう。

「今回はネ、まったくの手作りサウンド。ボクとメンバーとでプロデュースして歌を作って。
 なんていうか、このごろはほとんどがまったく機械的でしょう?
 キーボードだとか、コンピュータだとか。
 もちろん、ボクたちもそういうものを使うわけだけど、決してそれら機械に依存していない。
 それはあくまでも、ボクら人間が使うんだっていう、人間の音を使って出すんだっていう、そういう精神でやってる。」

今回のアルバムのために、沢田さん自身、2曲、歌を書いた。その1曲に“SHE IS A B-SIDE GIRL”というのがある。

「もうひとりの女・・・・っていうか。
 もうひとりの女がいて、そこに男がひとり現われる。
 男がその女の子のことを幸せにしたい、と言い出して・・・・・という歌。」

いま、ちまたで流行りの“不倫”なのだろうか?

「―――というか、そういう意識はボクには全然ないんだけどネ。
 “流行りの”というような、そういう意識にボクがなっていると、そういう風にとられてもいいし。」

なぜかやけに余韻の残る、そんな言葉のように響く。そしてそんな“状況”や“想い”が、沢田さんの中にひとりの男としてあるのかもしれない、とふと思う。

「昔、ボクはたいてい“趣味は?”って聞かれると“詩を書くこと”なんて言ってたの。
 そんなに上手いわけじゃないけれど、自分を表現できるじゃない。
 だから今回は、作詞もやってみようって。
 そりゃ、売野雅勇さんとか、安井かずみさんとかサ、そういう人のに比べれば、多少、詞の稚拙なところもあるけどサ、そういうところは、ボクの場合、歌でカバーできるやって気がある。
 上手じゃなくても、それはヘタッピーな詩を多少上手な歌で歌えば、味も変わるんじゃないかって。
 上手な詩と上手な歌じゃ、聞いててシンドイかななんて思ったりして・・・・。
 要するに自分の言葉で歌うということがうれしいワケ。」

ますます先ほどの歌の詩が気になってしまう。
沢田さんのこうした状況や、また彼自身の変化と同じく、少しずつ彼の周りにいるファンも変わってきている。

「昔はネ、とくにタイガースなんかのころはタイヘンだったネ。
 行くところ、行くところ必ず群なしてたもんネ。いわゆる“追っかけ”が多かった。
 たとえば、こうしてレコーディングしてるでしょ、そうすると、スタジオの周囲が大騒ぎ。
 窓やバルコニーの下なんかにワァーッといて“見えたァ!”なんてネ。いまは違うネ。
 きっとみんな昔のようにサ、ボクのスケジュールとか、どこどこでレコーディングしてるとか知ってると思うんだけど、もう来ませんネ。
 そんなことは、もうしたくないって思ってる人たちが、多いと思うわけ。
 だけど、必ずコンサートという集まる場所には、ちゃんと来てくれる。
 そういう意味では、もう暗黙的にアイドルじゃない、と思われているネ(笑)。
 群がって、グループで沢田研二を楽しむことから、だんだん個人で楽しむようになってきたんじゃないかと思うナ。」

去年の7月7日の七夕の日。新宿厚生年金会館で行われた、独立後初のコンサートには、すでに30代後半にさしかかろうとする女性の姿が目立った。子供の手を引いて駆けつける女性も見かけた。彼女たちの大半は、タイガースのころからの“沢田ファン”であろう。そのステージでは「みんな待っててくれたんだな」と思った瞬間、大いにアガったそうだ。

「昔はネ、自分がとってもデコレーションされてた。
 一生懸命、自分の周りをデコレーションして“ソレ、行け!”って。
 そうやって、商品価値としては高いモノができちゃうみたいな、そんな見せ方だったもの。
 でもいまは、モノ自体にクオリティを持たせようっていう時代でしょ。
 だから沢田研二というもので売れてきたものから、音そのもので売れたいと思うし、それがたまたま沢田研二だったという風に言われたい、と思う。
 そのためには、もう少し時間がかかると思うけど―――。
 メーカー品じゃない、ブランド志向じゃない、無印良品の世界だネ。」

中年にも青春はある。
青さかげんがブルーじゃないかもしれない。
ネイビー・ブルーの青春かな

タイガースから始まって、沢田さんが売ってきたレコードというのはもの凄い数字になると思う。いまでこそ、時間をかけて 1年に1枚のペースで出しているが、少し前まではそうではなかった。

「前はネ、売れたいと思う前に売れちゃってたから。
 売れてから“もっと売れるようにしよう”とかって考えた。
 もちろん今だって“売りたい”って気持ちは同じだヨ。レコードを出すからにはネ。
 でも、どちらかというと売れるという結果よりも、そのプロセスを大切にしたい、と思う。
 そういう意味じゃ、ボクなんかは“売れ線”とは関係ないようなところを通ってんのかもしれない。
 なんて言いながらも“売れて欲しい”っていう物欲しさはあるんだけど、あんまり物欲し、物欲しはやめようみたいなネ。」

今回のレコーディングから、完全な自分のバンド、CO-Co’LOを作った。それは沢田さんのバック・バンドではなく、沢田さんもそこにひとりとして同化する、という意味を持つという。彼がこれから音楽活動を続けていく上での、 “半永久的バンド”である。

「いまのメンバーになるまでにいろいろ紆余曲折はあったけど、
 こういう形でバンドをやるということに関しては、ボクも含めてみんな、これから先、もうこういうチャンスはないだろう―――って気分でやり始めたわけ。
 最後の出会いというか、みんなそんなに若くもないし。
 みんなでワイワイやりながら・・・・、中年にも青春はある―――と。
 ちょっと青さかげんがブルーじゃないかもしれない。
 ネイビー・ブルーの青春みたいに・・・・、グリーンに近い青春ネ。」

いままでの沢田さんというと“派手”というのが、まず思い浮かんだ。だが今度、バンドの中のひとりとなるときそれは、どう変わるのか?

「そんなに変化はないでしょう。
 ある程度、みんなそれぞれ好みもあるし、人前に出るときは、ちゃんと髭も剃って・・・・。
(ぶしょう髭をなでながら)こういうんじゃ、きれいな服も似合わなくなるしね(笑)。
 きれいな服も着たいし。
 みんな好きなものを着ればいいと思う。だからといって、自分だけが浮いてしまってもいけないけど・・・。
 でも、しばらくはボクが浮いちゃうだろうネ、テレビに出たら。それはそれでいいんじゃないかと思う。」

グレーの海がすっかり夜の風景になってきて、沢田さんはまたスタジオの中に戻る。明日は天気になればいいナ、と思いつつ、我々はスタジオを去った。

●髭についてたずねると、
「髭?こうやってのばしてると、なにか自分の中に閉じこもってやってる、って思われるけど、単にそると痛い、だからそらないだけの話。
 人目を気にして“だらしない”と思われることと、肌が痛いことを天秤にかけたら、痛いほうがいやだという・・・・・。」
 私たちの考えすぎでした。

●沢田さんとの連想ゲーム。
“衣”「いつも毎日着替えていればいいね。」
“食”「おいしいものを少しずつと思いつつ、ついついたくさん食べてしまう。」
“住”「熟睡できる場所があればいいね。」
そして“心”と言うと、笑いながら「もうふにゃふにゃ」だって。

●同世代の主婦へのメッセージを求められた沢田さんは、
「ボクなんか品行方正じゃないから、言ってもなぁ・・・・」
と呟いた後に、こう続けた。
「みんな、もっと不良になろう(笑)。ガキっぽくいきたいよね。
 もう、オッサンなんだから、これからジジイになるんだから・・・・・。」
そして、いたずらっぽく笑った。

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