2003年「東京人」8月号

JULIE
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女性セブンの、まあいわゆる隠し撮りではありましたがそこで着ておられた服というのが、2003年-2004年のイングランド代表ユニフォームだったということで、当時のこのインタビュー時にも着ておられたんですよね。まあ、すごい物持ちが良いことだと!は置いといて(笑)ちょうどこのインタビューというのは、志村さんとの音楽劇「さあ、殺せ!」をおやりになるということを受けてのものでして、偶然かもしれないんですが、どこかで意識して当時のものを着ておられるのでは、なんてことも思ったり。思わず、書き写したくなりました。この雑誌は以前たまたまオークションで落としたものだったと記憶しております。写真は絵でご勘弁ということで😅

笑ってもらうことが、すごい快感なんですよ。

格付けがあるとすれば、古典芸能よりも高い「笑い」。
——作、演出に久世光彦さん、音楽にcobaさん、そして今回のゲストに志村けんさんを迎えての音楽劇も今年で三年目になります。座長公演と呼んでもよろしいでしょうか。

 このシリーズは、ぼくが大好きな役者さんと喜劇をやりたいということと、久世さんが脚本を書いて演出をしてくれること、そして音楽劇というのが前提なんです。ぼくよりもおもしろい人が必ず来てくれるので、一応ぼくは二の線を行くんだけれど、ところどころ三をやらせてもらってます。出演してくれる人が決まったら、それでもうぼくの仕事は終わり、というところがありますから、座長という意識はないですよ。

——もともと喜劇は好きだったのですか。

 ぼく自身には喜劇の要素はなかったと思います。ただ、観ることがすごく好きだった。映画を観に行っても、そこに出てくる漫才の人に気がいくし。子どもの頃は、吉本新喜劇がまだなくて松竹新喜劇だったですけど、藤山寛美さん、渋谷天外さん、曾我廼家明蝶さん、曾我廼家五六八さんがおもしろかったですね。父親に連れて行かれて南座で観るとか、そういうものが好きだったのは確かだけれど、自分で喜劇をやるとか、自分でおかしいことを言って人を笑わせるということは、まったくなかったです。

——そんな沢田さんが、ドリフターズのテレビ番組などで「笑い」をやるようになる。

 歌が売れている頃に、ゲストとして「8時だよ、全員集合!」とかに呼ばれて、いろんなことをやらされるわけですよ、ギャップを狙って。当時は、「テレビの世界でやらされている」というような気分でしかなかったですね。でも、志村さんが人を巻き込むのが上手い人でね。「これをやってほしい」じゃなく、「だめですよね、ここまではだめですよね。だったらいいです、だったらいいです」と言いながら、こっちの心を刺激するんですよ。「これができないということは・・・・・・、根性がないと思われたら嫌だなあ」と思うのを、こう上手く刺激されて、「いいです」と、ついつい鏡のコントとか、ドジョウすくいの割箸鼻突っ込みをやってしまう(笑)。やってると、何と言うのかな、かっこいいと言われることとは違う、笑ってもらえることの快感があるんですよ。

——お客さんを前にしての番組収録ということも大きいですか。

 お客さんが入っているから、ということでもなく、かっこいいと言われることには何の実感もなく、笑われることが自分にとっては実感があることが、すごく快感だった。おもいっきりやればやるほど受ける、中途半端だったら受けない、ということをだんだん覚えていきましたね。
 89年から始めた「ACT・シリーズ」を続けるうちに、お客さんがどの日でも、笑うということに関しては無条件に笑う。だから「笑い」というのは、すごく馬鹿なこと、とっさにやってしまった馬鹿なことを、笑って昇華させるというか、そういうことがとっても幸せなことなんだと思えるようになった。十年間でそのことを確信して、より喜劇、笑いの要素がいっぱいあるものを作りたくなった。自分ひとりで「笑い」をやってもなかなか広がらない、「笑い」を引き出してくれるのは共演者だと思うから、名前を見ただけで笑えるというか、笑いたいと思ってくれないと。(笑)
 沢田研二が本気で喜劇をやりたいとは、なかなか認知されてないと思うんですよ。ぼくみたいなタイプのアイドルとしてやってきた人間が、「笑い」を本気でやると思うこと自体が変なのかもしれないけれど、ぼくにとっては何も変じゃない。世の中に格付けがあるとすれば「笑い」というのはまだ低いと思うんだけれど、ぼくのなかでは圧倒的に高いです。古典芸能より高いです。だから、今回のシリーズも十年続けようと思っています。

人から見ればギャップがあるかもしれないけれど、ぼくのなかでは一本の線みたいになっているんです。どこか、ねじれてるかもしれないけどね。(笑)

——喜劇を演じる難しさはどこにありますか。

 間でしょうね。間がちょっとでもずれると受けない。間以上、何もできないということも含め、難しいところですよね。頭で考えることよりも、勘に頼ることのほうが多いと思う。だから、テーブルの上で考えたことではなく、稽古場で出てきたことのほうが大事。それと、自分がおもしろがること。何でこれがおもしろいのかなと思いながらやってると、絶対最後まで受けないですよね。あとは、大中小と受けの度合いというのを自分のなかに作る。たとえば「一でよし」「三じゃなきゃ困る」「ここは五なのよ」という緩急がないと。「毎回五」だと考えると、ダメですね。

——コントや舞台以外で、「笑い」を作るのはむずかしいでしょうか。

 歌の場合、喋るとか、とっさに起こったハプニング以外には、「笑い」の要素がないんですよね。歌詞を忘れてしまうことも含めて、自分自身はすごく歓迎してるんですが、なかなか見つからない。たとえば「昭和枯れすすき」を、歌の世界のまま、ぼろぼろの格好で歌っていたら、誰も見たくないと言われるようなことでも、舞台では、みっともないことができる。歌のなかでぼくはどこか、ギリギリのところ、紙一重のところでやってきましたよね。
「勝手にしやがれ」の黄色いスーツにしても、最初、「ホストクラブのホストが着るような服だ」と言われながらも、「そのきわどさがいいのよ」になる。「TOKIO」の時も、後にタケちゃんマンが同じ衣装を作るぐらいに、見ようによってはおかしいけれど、パワーがあるから笑われずにすんだということだと思う。でも、どこかに、「笑い」を求めるところがあったのかもしれないですね。

——紙一重の部分が、スーパースターとして周りからいろいろ言われるなかでの反抗や、今の自分につながる。

 そうそう。売れっ子になると保守的になりがちだし、分別のある大人というのは、「そこまでやらなくてよろし」という話になるわけですね。ところが自分としては、そうやらないと人より先に行けない。かき分けていくのではなくて、人が考えつかないところを見つけて争わないで先に出るためには、ああいうことをやらなくてはいけなかったということを、ぼくは肌で感じたわけですよ。そういうことの連続です。歳をどんどんとって、やっぱりテレビというものは、若い人が、元気のある人が頑張るところ、かっこいいばかりじゃ続けていけないと思うようになった。大人がよく、「玉を磨きなさい」という言い方をするけれど、「別の玉でもいいじゃないか、別の石でもいいじゃないか」と思えるところがあったのかもしれないですね。

——「笑い」の質というのは、昔と違うのでしょうか。

 どんどんおもしろくなっていると思う。昔は、ようこれで笑ってたと思いますね。今は何でもありで、昔だったらNGにして止めてたと思うようなハプニングも、演出のようにそのまま進めてしまう。今はあらゆるものを駆使して作ってますよね。昔はその人の器量がそのままでしたから。

——舞台の魅力とは何でしょうか。

 コンサートにしても音楽劇にしても、ぼくは生ものが好きですね。テレビドラマも映画も、もちろんおもしろかったら出たいと思うけれど、この生のね、ある程度みっちり稽古をしてから本番に移るという、日にち薬的な進行の仕方が性に合ってるのかなと思って。赤の他人が寄り集まって、最初、「こんにちは」って言う時だって恥ずかしいんだから(笑)。それがひと月とか一緒に稽古をして、擬似家族のようになって、「本番だ、さあ頑張ろう」と言い、「でもやっぱり赤の他人なんだなあ」と思いながら一緒にやって、本番を重ねていくうちに「何か本当にお友だちになれたかな」と思うと終わるというのが、すごくいいところだと思う。映画やテレビは稽古の時間もなく、赤の他人のままで芝居をして、赤の他人のままでさよならをするんですから。

——毎年必ずアルバムを作りコンサートをする。そして音楽劇と、エンターテナーとして、ますます磨きがかかりますね。

 この音楽劇シリーズも、あと7年やらな、いかんし。だから、久世さんにはちゃんと元気でいてもらわないと困るんですよ。ぼくも人のことを言ってられませんがね。(笑)

 

多分、今の沢田さんがここまで語られることはないと思われるので、貴重なインタビューですね。
そして、こういう「笑い」の面でも志村さんって「恩人」であると思うんですよね。あの絶頂期に、本当なら笑いを取りに行く必要はなかったのに、志村さんによってお笑いに対して「本気に」させてもらったお陰で、自分はこういうことが好きなんだと、気づかせてもらって、こういう部分も自分の中に取り入れて追求していきたいんだという思いが目覚めて。それが今の沢田さんを創っている要素の一つとしてなっていて。
やっぱり人の影響が必要なんだなと。自分が変われるのは。

週刊誌の内容の中で、自分の仕事に対する姿勢はものすごく厳しい反面、志村さんとの仕事はすべて任せておられたと。それだけ尊敬され、信頼を寄せておられたのだと分かりました。そうやって学ばせてもらった恩に報いるためにも、志村さんの代役をやり遂げたいという気持ちがね。もう考えれば考えるほど熱くなってくるものがあります。

改めて、映画が無事に完成すること。みんなの気持ちが届きますように。

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