85年インタビュー

JULIE

「はね駒」(86年放送)に乗じて、まずはこのあたりをウロウロすることにします(笑)

PENTHOUSE JUST INTERVIEW 沢田研二の独立宣言

「去年の秋頃突然、このままじゃヤバイ、何かを変えなくちゃ、って思った。つまり危機感ですヨ」

既に6ヵ月の時間が流れていた。我々は、このひとりの男の空白の時間を”沈黙の時”と呼んだ。そこには、様々の無責任な憶測、好奇が飛び交っていた。しかし、渦中の男は黙して語らず”時の過ぎ行くままに”来る春、来る春を待った。空気ある空間を泳いでいた。そして今、夏、沢田研二が再び動き始めた。

“休業宣言”も“休養宣言”もなかった。
’84年12月31日、大晦日のステージを最後に、沢田は、TVの華やかな画面から、
そして大きなステージからも、姿を消してしまった。

“いったい、あの沢田に何が起きているのか!?”
―――多くの人の間に、さまざまな憶測が流れ、さまざまな噂が飛んだ。
そのどれもが、沢田の口から出て来たことではなかったが、
不思議な魔力を持って、まことしやかに響いた。

独立問題、奇行説、そして心身症説。
沈黙の時間の中で、沢田は、それらのことをどう受け止めていたのだろうか?
また、何を考えていたのだろうか?

うっとうしい梅雨の季節を迎えた頃。我々は沢田と会えた。

“ターニング・ポイント”だなんてカッコいいもんじゃないよ…

―――もう6ヶ月ですね。沢田さんが我々の前から公式に姿を消してからは。いわゆる我々の言う、沢田研二“沈黙の時”の経過、という訳ですが。これは、沢田さんの或る種、ターニング・ポイントと見るべきでしょうか?

沢田 ターニング・ポイントが来たナ、と感じて、この長い時間をとった訳じゃなくて、結果的に、この時間がターニング・ポイントになればいいナ、って思うわけで。
幾ら長い充電期間を持ったって、その後にドンドンすたって行ってしまったら、それはやっぱり、ターニング・ポイントになった、とは言わないでしょ。
新しい結果を何か感じたり、少しは前に行けたナ、と思えたときに初めて、“ターニング・ポイント”って言うことができると思うんだよネ。まだ吉と出るか凶と出るか、全くわからない。あんまり、カッコよく取らないで下さい。


―――でも、物事には必ずきっかけがある訳で、そういう意味では、この長い時間を沢田さんにもたらしたきっかけは何だったんですか?

沢田 それは危機感ですヨネ。ヤバイっていう感じですよ。

―――何が、ヤバかったんですか?

沢田 このままじゃヤバイ、っていう…。

―――自分自身?

沢田 うん。だから何かを変えないといけないっていう感じ。それはやり方なのか、考え方自体を変えるのか。僕自身、世間で言う “一度言ったら撤回しない”とか、“武士に二言はない”とか、そういうの嫌いだから、方法論や姿勢が、そのときの状況や理由に応じて変わってもいいと思ってる。
勿論、他人に迷惑をかけない、というのを前提にネ。だから、この辺で考え方とか、やり方をガラッと変えてみることも、一つの方法でいいかナって、思ったんですヨ。

この期間で、完全に自分の中をからっぽにした

―――しかし、こんな長い時間、まるで昨日までの自分とは違う、みたいな生活を送ってきて、焦燥感というのは無かったですか。

沢田 いや、正直言って、最初は凄く…焦燥感ありましたネ。この芸能界での18年間で、1ヶ月以上休んだこと、今までに無いから。ひと月休んだっていうのは、今までは病気だとか、それくらいだからねネ。どっちかっていうと勤勉な方だから、勤勉にしてないとドンドン、クセがつく方だからね。休んでると、やっぱり早く仕事がしたいと思うしネ。
でもそんなときに、今、僕の周りにいるスタッフが、「オマエがそれだけやる気があるんだったら、それだけやっぱり待つということもしなきゃいかん。もっと自分を白紙にすること、それをしなきゃいかん」ってネ。ずいぶん言われましたヨ。
それこそ「早くやりたいんだよネ」って言っても、「いいんだ、そんなこと気にしないで、どっか遊んで来い」っていう訳ネ。

 
―――でも、そういうときって気になりますヨネ。割と今までのテンポから落とされて行く不安感とか、周りの人の活躍とか。そういうのを感じたこと、ありましたか?

沢田 うん。それもあった。今年に入ってネ。最初は春頃にはやりたいって言っててネ。「やっぱり、春にはちょっと動きたいでしょ」とか言いながらネ。春の虫がウニョウニョみたいな、そういうので「春にはやっぱりやりましょうネ」なんて言って。
で皆も、「そうネ、春いいネ」っていいながら、なかなか進行しない。かといって全然作業が進んでない訳じゃなく、確実に着々と進んでいたんだけど。なんでもかんでもそう簡単に、一朝一夕に物事は成らんというのは理屈ではわかってんだけどネ。或る種の焦りだったんでしょうネ。僕の中の。
それに今までの僕の仕事の仕方っていうのは、“うーん、どうかナァ”って思っても見切り発車でドーンとやって、やってる中で辻褄を合わせていくと。そういうやり方で結構鍛えられて来た方だから、今回の様に“いやいや、グッと抑えて、グッと抑えて”、ウワーッていうのは慣れてないんだよネ。
だから本当に、周りから手綱をギューギュー締められて「いや、まだまだ。まだ遊びなさい、遊びなさい」っていう感じだと、最初は確かにイライラしたヨ。特に短気だから。(笑)
でもそのうちだんだん「じゃ、まぁ、ブラブラ行って来ますワ」みたいな感じで、ちょこちょこ遊びに出かけたりするようにもなってネ。それからいろんな人の仕事の仕方とかを見て。“ウワー、凄いなァ。僕はなんと交際範囲が狭かったことか!”なんて知ったりネ。
やっぱり知らず知らずのうちに、冒険しようと思いつつも保守的になっていた部分があったんですね。十何年間、同じスタッフでやってきたことのプラス面とマイナス面が、よく見えて来ましたネ。
ま、そんなこんなで、この期間はとっても有効に使えたというか、これだけの期間だったから有効になったっていう感じもありますよネ。

―――私たちが沢田情報に対して“飢餓状態”にされてるときに、或る意味で沢田さんも“飢餓状態”にあったのではないかと感じますネ。

沢田 或る意味ではそうですネ。自分の中をカラッポにしつつ、反面“やりたい!”っていう気持ちを起こさせる、でネ。

―――で、その間、週刊誌とかに、無精髭の顔とか、いろいろ載ってましたヨネ。ああいうのは、今考えると、もしかして焦燥感の出てきた頃であり、まだ余裕ありますというカモフラージュというか、またはある種のデモンストレーションだったのかナ?と思うんですが―――。

沢田 うん、それはデモンストレーションだったんですよ。(笑)こうやって髭を生やして出て行って、もしも誰も、何も言ってくれなかったら困るナァ、と思って行ったら、やっぱり書きたててくれたから、“良かったァ!!”なんて思って・・・。

―――後でその記事読んだりしているときの気持ちというのは、どうです?

沢田 向こうは向こうで“してやったり”と思ってんのかっていう気持ちもあるのネ。こっちは何ていうか、軽い気持ちでデモンストレーションしてる、って言ったらいいかナ。

―――それにしても沢田さんのデモンストレーションのカウンター・パンチは、かなり刺激的でしたネ。“カポネ”の舞台挨拶のときなんか、とくに。

沢田 でもネ、あのときの話はタネを明かせば、面白くも何ともないんだヨ。挨拶の順番、僕は3番目。萩原さんがやって、田中さんがやって、その次が僕。3番目っていうことは、拍手が誰が一番多かったかってことが明らかにわかる訳ヨ。結果、僕が一番多かった訳。(笑)
で、僕は、僕のファンだ、僕のファンが一杯来てんだと思ったわけヨ。それはそうだ、僕は休んでるもんナ、ズーッと。みんなも歌聴きたいだろうナって、一瞬のうちにパッパッパって思う訳ヨ。
で、♪アマポ~ラ♪って、これだけしか言ってないんだヨ。歌ったんじゃないのヨ。♪アマポ~ラ♪って言っただけなのヨ。それがもう歌ったことになる訳でしょ。
実際、会場はウワーッとなって、続けてって雰囲気になったんだけど、そこで歌ったらアホだから「いやぁ、しばらく歌ってませんから、本当にステージに立ちたいですネ」てなことを言いながら、ノラリクラリと話してた。

で、あの時のステージの“問題写真”―皆から離れてステージの隅で立っていた―についても、次の人が質問を受けて、答え始めたから、僕らの礼儀としては、やはり、マイクがあって、人が話してて、その後ろには絶対立たない。
それで、あのときもそういう状況で、僕がちょっと、そこを避けた、それだけのこと。なのに、皆からガーッと離れてるような角度から写真撮っといて“1人ポツンと…”っていう、キャプションを付けてる。これだけの話なのヨ。
それからもうひとつ。この後の「仕事下さい」の一件にしても、これもくだらない。あれはもう作為的に書いてあるとしか思えない。全くの事実無根。
“仕事ください”から挨拶を始めたのは事実なんだけど―――。実はいつもいつもよく言われる訳。「今度こういうのがありまして、やってください」って。でも、やっぱり好きじゃないとやらないじゃない。でもあの“カポネ”は、とても仕事が楽しくできたから。
そういう意味と、「ああ、また挨拶か」という思いとが混じって、「仕事ください。というのは…、今回は本当に仕事が楽しかったし、こういう仕事なら、また、やりたい。出来れば次回は、この2人を共演に回して、僕が主役でやりたいです」みたいなことを言ってんだけど、書かれたのを見ると、“沢田研二、舞台で唐突に「仕事ください!」と問題発言!”と、出てる。バカバカしいでしょう?(笑)


―――なるほどネ。でも、あの一件を境くらいに、沢田さんのデモンストレーションもなりをひそめてしまいましたね?

沢田 そう、何か変に“こんだけ騒いでくれるなら、もう大丈夫だ!”って思った事もあるし、あんまりそんな遊んじゃイカンって…。(笑)

―――要するに、我々が割と大袈裟に“沈黙の時代”って言ってて“沢田に異変!”なんて騒いでいたのは、或る意味で、我々書き手側が作った事実、だったんですね。

沢田 何も言わなかったことがそうさせたんだろうしネ。

―――でもまた、或る意味で、それは沢田さんにとって、いい作戦であった…と。

沢田 結果的に?(笑)

―――と、思うんですヨネ。

沢田 でも、考えてみたら、世間が騒いでくれることは「くだらない書き方をして」と言いつつも“興味を持ってくれてる”って嬉しくなる。自信にもつながったしネ。(笑)

これからは、自分自身の見方もかえなくちゃ

―――ところで、ここで最も我々が気にかかることは―――。去年さんざん騒がれた独立問題云々ということなんですが。沢田さんの中で、渡辺プロからの独立問題は、どう解決したのかナ?と思ってるんですが。

沢田 いや、独立したのヨ。

―――したんですか。

沢田 したのヨ、もう。

―――しかし、今回、このインタビューの打ち合わせや何やかやで、お会いするスタッフの方の名刺は、まだ、 “渡辺プロ”と、あったりするんですが…。

沢田 討ち入りする前に、皆それぞれの職業についてるって、って感じ…。(笑)
それぞれスタッフは皆、一国一城の主ばっかり。それだけに面白いなって、思ってるわけ。

―――いや、皆さんにお会いするのは今日で4回目なんですけど、非常に色濃いメンバーだナァと思ってました。どういうきっかけで、このスタッフが集まったんですか。

沢田 もともと去年の秋頃から、ちょっとこのままじゃなくて、1段階進みたい、っていう気持ちがあってネ。で、気分も人も一新しようっていう感じでネ。
かといって僕はあんまり交際範囲の広い人間じゃないから。今まで何らかの形でつきあいがあった人なんかに相談してて、その中で段々メンバーが集まって来た、という感じ。


―――しかし、さっきも言ったように、我々が、その沢田さんのスタッフに会って、渡辺プロの名刺が増えるってことは、これは完璧に切れた訳じゃないんですネ。

沢田 そうそう。僕はケンカするのが嫌いだから。(笑)

―――それじゃ、そのいわゆる“独立問題”が、沢田さんの中で精神的にも実質的にも解決したのはいつなんですか?

沢田 それは去年のことだネ…去年じゃなかったか。いつだかはっきりしない。割と最近ですヨ。今年に入ってからだ。

―――春の息吹の前ですか?

沢田 春の息吹の前ですネ。で、後は手順を踏むだけのことで、そしてセレモニーっていうか。そういう儀式もやらないといけないし…。
そんなに大きく何かが変わる訳じゃない。気分としては、その前から独立してたし…。
ま、これからは自分自身も常にスタッフとしての見方をしながら自分のことを考えて行くという…。


―――じゃ、一応は円満独立ですネ?

沢田 そうそう。だから形としては、業界的には半独立っていう風な書き方になると思うのネ。勿論、渡辺プロ傘下ではあるけど…。
一応は独立。要するに“巣立つ”というか“ノレン分け”みたいなものだネ。

1年振りのステージ、何かが変わりますよ!

―――実際、独立して会社の名前は?

沢田 オフィスCO-COLO。スタッフは5,6人の会社で、そして僕が唯一のタレントです!で、今度の僕の新しいバンドも<CO-COLO>ってする。

―――それは沢田さんが命名したんですか?

沢田 これは僕のブレーンが考えたんだ。で、ロンドンからもメンバーが2人参加してくれてるし、最高のバンドだと思うヨ。

―――じゃ、もうCO-COLOはスタートしてる訳ですか?

沢田 うん、もう既に形としては。今、事務所を探してるんですヨネ。(笑)

―――じゃ、本格的には場所が見つかり次第。

沢田 場所が見つかったら、即!(笑)

―――あと、気になるのはレコード会社なんですけど、移籍問題はどうなりました?

沢田 東芝EMI。

―――これはもう発表になってる訳ですか?

沢田 というか、皆もう知ってるモン。

―――知っていたんですけど、一応確認で。

沢田 この本が出る頃には、当然、発表になってるネ。

―――前のレコード会社、ポリドールはもう永いんですヨネ?そこを変えた理由は?

沢田 タイガースのときからだから18年、ポリドールにいて…。要するに気分ですネ。気分で何とか何かを変えたいッ!って感じで、わがまま言わせてもらった。

―――それも、割と円満にですか?

沢田 うん。一応、何状って言うんだろう、記念品もらって、賞状みたいのがあって。ポリドールの社長さんから「また迎えに来ます」って。(笑)

―――その新しいレコード会社からのLPは何てタイトルで、いつ発売なんですか?

沢田 タイトルは“架空のオペラ”で、8月8日に先にシングルの“灰とダイヤモンド”が発売されて、アルバムのリリースは8月21日の予定です。

―――レコーディングを始めたのは?

沢田 スタジオに入ったのは4月20日から。今は、もう歌入れは終わって、あとはトラック・ダウンだけ。

―――ところで、もうじき久々のツアーが始まる訳ですが…。気分はどうですか?

沢田 メンバーも全員揃って、毎日毎日、リハーサルしてますヨ。とりあえず東京と大阪だけのツアーだけど。去年の8月26日を最後にツアーはしていないから、約1年振り。
スタッフは皆「上がれ、上がれ」って言う訳。「沢田は絶対上がるゾ!」とか、「沢田は上がったほうがいい」とか。でも僕、ここ7,8年、上がったことがないからネ。

―――今回は上がりそうですか?

沢田 いや、こればっかりは本当わかんないネ。ンなこと言ってて油断してると、上がったりしてネ。ま、気楽に「こんにちワ」か、「皆さん、こんばんワ」と、これしかないですヨ。(笑)「元気ですか?」って出て行くのもおかしいしネ。

―――要するに、“久し振り!”って言うのはステージで観て下さい、感じてください、と。

沢田 うん。そうですネ。だから、変わってないといったって、何か変わってるはずだからっていうような感じ。
それでとにかく、僕の歌を聴いて下さい、音を観て下さい!―――と、そういう気分ですネ、今は。


今回のインタビューで計6回、沢田に会った。そしてその度、感じたのは―――。
彼の中で37歳を迎えた一人の男、沢田研二と、そしてもう一人、熱い何かを燃やすことの出来る沢田の分身が、
その形を模索しながらも、沢田らしい形で共存している。
またその燃え方も、若い頃のそれより、静かではあるがより熱く、よりインテンシィブに燃えている―――と。
今年も熱い夏が始まり、沢田が走り出す。

独立前後の心境について他にもインタビュー記事があるのでしょうが、これしか資料がなかったので。しかし長文で経緯がよく分かりますね。

人生の転機って、前々からずーっと考えていて・・・というよりパッと「あっ、こうしよう」みたいに思いつくパターンもあるわけでこの時のジュリーはこうだったんだと思いましたが。それでも、翌年(85年)の正月公演がないということは突然考えついても遅い問題ですしね、年単位で抑えておかないといけないでしょうし、そう考えたらかなり前から85年で転換しようとうい気持ちがあったのかなあなんて思いますが。

自粛中って、それこそ今私が自粛中なので(笑)余計に気持ちが分かる気がするんですが、いろんなことが俯瞰的に見えるような気がするんですよね。視野が広がるというのか。目の前に仕事があると、とりあえずそれをこなさないと・・・になるのでいろいろ考えきれない、そうやって時間だけが過ぎていくというね。
そして、「自分が何が好きなのか、何をやりたいのか」ということが見えてくるわけで、私なら「あ、自分てこんなに絵を描くことが好きだったんだ」と気づかされるわけです。

この頃約一年間LIVEで歌われてなかったんだ・・・と思うところもありますが、なんかコンサートホールの使用方法について例えば席の間隔とか、あそこまで厳しくする必要はないんじゃないかと思うんですけどね。入場の際のチェック。マスク着用。声を出さないなど、規律を守っていたら。もう一度専門家の人々で話し合っていただきたいなあ。

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