ザ・スター 沢田研二3

JULIE
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第3章 チンピラ

話した人 沢田研二<1976年1月23日>

死んでいたインコ

 セキセイインコが死んでいた。タイガースの仙台公演から帰って来た夕暮れに首をうなだれて七色の羽は冷たくなっていた。
 インコはファンからの贈り物だった。鳥籠(かご)から静かにとりだすとじっとみつめた。だからいったろう、こんなところにもらわれてきちゃいけないって・・・。
 実際ファンの贈り物は千差万別で中身をひとつひとつうかがっているわけにはいかない。しかし一羽の鳥は確かにぼくの部屋で目を閉じた。
 宝石箱をとりだしてインコをその中に入れるとオーデコロンをふりかける。せめてもの死化粧・・・。ふたを閉じた小さな柩(ひつぎ)を持ってぼくは目黒川をめざして歩きはじめた。オレンジ色の川岸に立ち、祈る言葉も何もなくそっと川下に柩を流したーー。
 生き物がきらいになったのは19歳の頃だろうか。例えば家の玄関を開けると一匹のシャム猫がいる。こいつがきらいだ。ぼくが結婚して、この家に来るだいぶ前から住んでいたらしく、妻を含め伊藤家に過保護にされたせいか、かなりのはばをきかせている。
 しかしその甘ったれが当時からぼくは許せなかった。動物のカンというものだろうか。猫は決して自分の味方ではないとわかると、今度はノドを鳴らしてすりよってきた。なんとか情を通わせようとするのだ。
 おい、おまえもしょせん一匹だということを忘れるな。まわりにたよりすぎるといつか死ぬ。

この後、再度の結婚によって180度変わるんですけどね(笑)
もともと思慮深い、愛情深い方だと思いますから、生き物に対しても特別嫌な印象はなかったんだと思いますが、芸能人になったことで例えばファンからの贈り物だとかなんか曲がった感覚で捉える、捉えざるを得ない感じになった結果なんでしょうね。一時期嫌いになってしまわれたのは。
いやいや、それ以前におそらく「私の身代わりとして飼ってね」と贈ったらアカンでしょ😅

家族との”シキリ”

 インコでさえ猫でさえ情を通わせ自分の居場所を他人の心につなぎとめる。そして友達もそうだ。ましてや血縁関係になると、血のつながりというだけでひとつの甘えが出来る。
 ぼくは現在住んでいる家では2階の部屋しか知らない。妻の家族が住む一階の間どりは食後、新聞を読む応接間と毎朝入るバスルームをかろうじて知っているだけだ。
 これは階下の世界まで知ってしまって遠慮がふえるのがつらいのと、せめて家族の気づかいのタネを少なくするため、ぼくの決めたルールである。

この部分でなく、この本を通して随所に思わせられる「プライベートの部分まで強いる厳しさ」
だからこそ、とびっきり輝くことができたんでしょうけれど、それを続けることでやがてそれが精神的にマイナス方向に働いてしまう。だからこの後いろいろあったにせよ、賛否はあるにせよ、近年の幸福感が伝わってくる沢田さんのステージを見てこれでよかったんだと一ファンとして思うわけです。

寂しい顔が好き

 遠い昔ぼくは学校の休み時間に廊下に立って、窓から校庭をみるのが好きだった。
 ただぼんやりとみつめるのがここちよかった。するとクラスメートは、寂しそうな顔をしているとか、孤独な姿がいいとか口々にいいだした。そういわれれば、ますますかまえたかっこうでぼくは校庭をみつめるようになり、それがぼくであるかのように思われはじめた。
 ある日作文の時間にぼくはこう書いた。寂しい顔をするのが好きなんです。ええかっこうしいなんですーー。
 そのクセがずっといまも続いている。人はそんなぼくをいいようにとる。ぼくは人の頭の中でジュリーとなる。そして虚構の中で歌う。

私のイメージというか、写真などで見た子供の頃のジュリーって、どこか儚げ、寂し気な顔しか思い浮かばいんですね。快活に笑っているような写真って見たことがないような・・・
だから窓の外を見つめる姿って容易に想像できます。
エエかっこうしいは芸能人としては大事な要素ですからね。
それを子供の頃から自然と実践していたという(笑)

折り紙を教えて

 ぼくがチンピラだと知っていますか?不良ぶって空手を習ってケンカをしてそれほど強くはなれなかったし、野球部で5番を打っていても器械体操はまるでだめだった。
 それよりも誰か鶴の折り方を教えてくれませんか。
 幼稚園には年を二歳もくりあげて兄貴とはりあって入園したものの、折り紙の時間がくるとおくびょうなぼくだった。家にもどってきては折り方を習ってゆくのだがどうしても出来ずにぼくはひたすら紙飛行機を折った。そして飛ばした。何機も何機もぼくはすばらしく飛ぶ飛行機を作った。
 やはりぼくは鶴を折りません。飛行機の方が鶴よりもずっと飛んですてきだ。チンピラがはみ出された時にみつけたささやかな夢だ。

これが林長二郎だ

 鳥取で地主の二男坊であったオヤジは、畑を耕すのを嫌って京都に住み、映画監督衣笠貞之助氏に師事した。助監督の見習いでもしていたのだろうか。やはり彼もチンピラの夢を買った時期があったのだ。
 やがて薬のおろし問屋に家業がかわった頃、ぼくは生まれた。兄貴よりもはでな顔をしていたぼくをみて役者にしようと思ったというから、オヤジが自分の夢を息子にあずけたことになる。
 オヤジは仕事ついでにぼくをオートバイの後ろにのせて、街中を走りまわった。それからタンスに大事にとっておいた古いスチール写真を大事そうに並べては、これが林長二郎だ、などと現役時代のオヤジの活躍ぶりをヒザに抱きあげて聞かせた。
 家を出て京都のジャズ喫茶で歌い始めた頃に、小遣いをむしりに家に帰ればオヤジは何もいわずに金を渡した。ごうまんなチンピラ歌手の目にも決して裕福な家計ではなかったことをいま思う。
 渡辺プロダクションの誘いを一番に相談したのもオヤジだった。
「悪くない話じゃないか」
 そういってふところに手を入れ五千円を握らせた・・・・。
 五千円の血縁・・・・。
 いいやちがう、そんなに安くないはずだ。だからつらい。身にしみすぎる。
「かえるの子はかえるだね」
 昔のオヤジを知っている友人がいま語りかけると、オヤジはてれくさそうに目を細めるという。
 オヤジ、あなたはかえるじゃない、チンピラだ。華麗な映画界を夢みたチンピラだ。立派なチンピラだ。そしてもしもおなじとするならばおなじ二男坊がはみ出していった歴史だけだ。チンピラの子がチンピラになってもチンピラは一人だ。五千円は血ではない。金だ。そうでもしないとぼくは甘くなりすぎる。

お父様がこの世界に入る際に反対だったという話は聞いたことがないですね。
ご自身が農家に生まれて、当然農家になるのが当たり前的な風潮の時代、それが嫌だと飛び出して華やかな世界に憧れ、夢をかなえきれなかった?部分を息子が引き継いでくれたという嬉しさがあったんだと思います。
そういえば、昔レコード大賞とか受賞の場で家族が会場に来ていてインタビューを受ける、あるいは壇上に上がるとかありましたけど、そんな状況ジュリーでは見たことがないなあ。多分ジュリーが拒否したんじゃないか、そんな気がします。

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