ザ・スター 沢田研二23

JULIE
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第23章 謹慎

<1976年6月18日>

帰国報告の電話

 6月14日午後5時30分、沢田研二を乗せたJAL412便は羽田空港に到着した。出迎えたのは、渡辺プロダクションの池田プロデューサー、宣伝担当の加藤氏、マネジャーの森本氏であった。
 20日の東京音楽祭は間近だ。沢田が大会のトリをとるかもしれない情報などもあって、ゴールデン・カナリー賞をめぐり、スタッフは抱負を語り合っていた。沢田は半月ぶりに元気な顔で空港ロビーに現れた。そのまま迎えの車で自宅へ直行。同行したのは森本氏であった。
 沢田からの渡欧の報告は楽しいものであった。
 フランスの税関では係員がKENJI・SAWADAのサインをしてくれとせがんだこと、ルーブル美術館で一人ゆっくりとモナリザを見たこと、ラジオRTLの公開放送では客席から手を引っぱられたり、帰る時泣きながら追って来たファンまでいたこと、同行した加瀬さんはロンドンでのレコーディングに走りまわっていたので、沢田が自らなれない英語でプロモートしてまわらなければならなかったこと。ことにRTLのチャートでELLEが初登場43位にランクされたことは今回の成果が大なることを暗に示していた。
 沢田は午後7時30分過ぎに、帰国報告のために渡辺プロダクションの松下制作部長に電話を下。受話器のむこうで部長のはっきりとした声が聞こえた。
「明日、午前10時にきみと会いたい。重要な話がある」
 電話は事の詳細を告げずに切れた。よくニュアンスがわからないまま、続いて沢田は社長の渡辺晋氏に帰国の電話、
「沢田、いろいろあるからな」
 社長の話しぶりからも、明日の話が重要であることがわかった。

手の甲の傷は・・・・

 6月11日、松下制作部長は渡辺晋氏からある決定事項を受けた。
「今回の沢田研二に関する渡辺プロダクションの態度を決めたい。沢田に一切の芸能活動を禁止した一ヵ月の謹慎処分を与えたいがどうだろうか・・・・・」
 ずいぶんと長期間、社長が沢田に関して対策を練っていたことを、松下部長は知っていた。
「私も社長の意見に賛成です」
 この日の沢田研二謹慎処分の決定は社長、副社長、制作部長以外の耳にふれることはなかった。沢田への通告は、帰国後ただちに松下部長が社長代行でなされることになった。

 マネジャーの森本氏は丸の内署から、帰国後の沢田研二を取り調べたいので時間をあけてくれといわれていた。沢田の14日の帰国は予定より2日早いものであった。
「沢田君、明日の午後にでも署に出頭しないか」
 やっと自宅でくつろいだ彼に森本氏はたずねた。渡欧中のマスコミ記事に目を通すと沢田はうなずいた。日本にいないからといって、沢田の胸中から5月16日の出来事が消えた日はなかった。相手の歯にあたって切った手の甲の傷は、梅雨の気候に悪化して、いまでは指のつけ根まで水ぶくれになっていた。パリで毎日この傷の治療をするたびに、まだ出来事は解決していないと沢田は思っていた。
 6月15日午前10時、沢田は約束通り松下部長の待つ渡辺プロダクションのドアを押した。
「渡辺プロダクションとして、君に1ヵ月の謹慎処分を与えることになりました」
 松下部長は静かにいった。
「これに関してきみ自身からの問題はありますか?」
 沢田はだまって聞いていた。そしてしばらくすると、
「わかりました」
 と一言いった。それから松下部長はなぜ謹慎処分にしたかの理由を話しはじめた。
「きみが暴力をふるってないということは、ぼくらも断固信じている。しかしその事態のうんぬんではなく、二回にわたって問題を起こした責任はある。世の中にその責任ある姿勢をしめすべきだ」
 松下部長は沢田が事態を起こした後、たびたび話し合う場をもうけていた。パリの沢田と長電話したこともあった・・・・。
「沢田、この事態は起こるべくして起きたのか。逃げれば逃げられたはずだ」
 そういってはみたが、松下部長があの日、新幹線で同じような出来事にあえば、やはり男として本当に逃げられたかどうか、彼にも自信はなかった。
 社長代行の言葉をかみしめるように話し終えた松下部長のもとに、波多野宣伝部長と、川合総務部長が現れた。波多野部長は今回のマスコミ対策を松下部長と打ち合わせ、
「記者会見という報告ではなく各社を回り、陳謝の表明をして歩く」
 ことに決定、川合部長は沢田に丸の内署に出頭するについての必要事項を話した。

7月19日まで

 丸の内署に沢田が出頭したのは午後1時であった。取り調べは1時間で終了した。その後沢田は傷の治療のため病院にむかった。渡辺プロダクションがスケジュールのキャンセルと、各マスコミに謹慎処分の決定を知らせるため外回りをはじめたのもその頃であった。その夜、雷鳴が響き、東京は豪雨となった。沢田研二を取り調べた調書はいま検察庁にまわり、ここ10日以内には起訴か不起訴かが決定する。事態の解決がついても、沢田研二は7月19日まで芸能活動を停止する。

という謹慎が決まるまでの経緯なんですが、なぜか「我が名はジュリー」で沢田さん自身が語っておられることと違うんですよね💦

 あのときも、要するに謹慎させられたことになってるんだけど、僕が申し出たんですね。それがまた僕流の、うやむやにしたままズルズルッといきたくないという考え方で。それまではそういう例がなかったんですけどね。とにかく僕の気分としては、人前に出たくない、とにかく出るのいやだと。仕事が入っているから周りに迷惑をかけるけども、こういう事情だから、謹慎ということでキャンセルさせてくださいって・・・・。

この部分て、けっこう大事だと思うんですが😅
うまくつなげるとすれば、松下さんと何度か話すうちに、沢田さんがしばらく休みたいという希望を言っていて、その要望を晋社長が受け入れ、それが正式決定となって帰国後告げられたという流れなのではと推察はしますが。
手のケガが思った以上にヒドかったことはおそらく事実どおりだと思うので、そりゃ余計に吹っ切れないだろうし、こんな気持ちで新たに仕事をするという気になれないだろうなあ・・・なんて思いますね。「ここでいったん立ち止まんとアカンようになるで」そう心のどこかが、彼に問いかけたんじゃないかと。

コメント

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