ザ・スター 沢田研二8

JULIE
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第8章 そして再びパリ

話した人 沢田研二<1976年2月27日>

曲は何だろうか

 旅立ちだ。果たしてフランスではどんな曲がまちかまえているのか。2月25日10時からパリ・ポリドールでキーチェックが行われる。フランスでは「巴里にひとり」「アトン・モア」「フー・デ・トア」に続き4枚目のぼくのシングル盤である。
 なぜそれほどまでにパリに足を運ぶのか、といわれる。いや今回は、ロンドン、ジュネーブ、そしてベルギー、もしかしたらモントリオールまで足を伸ばす。世界への飛翔などと飾り立てる言葉があるとすれば、それはまだまだぼくとはちがう。
 たとえばパリと東京はあまりにも遠いのである。ジェットで20時間たらずの1日にも満たない時間の差、宇宙中継では同時間さえ共有できる現代科学であるが、歌手のぼくには、それらの進歩はまださして関係がない。
 確かにぼくはパリでレコードを出した。向こうのヒットチャート誌にものぼった。テレビ出演もした。当時日本から初めてやってきたシンガーはパリッ子にもめずらしかったのだろう。初めはそれでもよかった。しかし、もはや彼らの前でもぼくは新人ではない。

心晴れぬ里帰り

 パリから帰るたびになぜか胸が晴れなかった。現地でヒットしてもしなくても、評価がたとえ良くなくても、それがぼくの真価であったのならもちろんしかたがなかった。しかし、真価を賭けるべくパリで日本と同じペースで仕事が出来るのは、まだぼくにはほど遠いことなのだ。
 生のステージで生のぼくの歌を彼らにみて欲しいと思っていた。
 パリで一枚目のシングルを出した時からずっと思っていた。ある時は汗を輝かせながらエネルギッシュに、ある時は静かな影のように、彼らとぼくの呼吸を感じたかった。
 スタッフの誰もがそう願いつつ行動にうつしていることはよくわかっている。しかし、当人であるぼくにとっては、スタッフの努力にもかかわらず、いらだちに似た感情が芽ばえているのをかくすことは出来なかった。言葉のギャップも大きい。国民性から生じる仕事の考え方、創造法もちがうだろう。こちら側がイニシアチブをとることはむずかしいのだ。
 それでもやらなくてはならない。ぼくが直接パリのスタッフと言葉をまじえて成立するステージなら話もしよう。あらゆることをおしまない。レコードとテレビ出演だけなら、それはレコード歌手としての役目にすぎない。歌手として出せるものをすべて出せなければ歌手としての役目はみたしていない。
 あと何歩近づけばよいのだろう。だからこそ今回の渡欧はひときわ意味深い。一番重要なことはぼく自身がふりまわされないこと、歌手としての心情をどれだけ貫き通せるか、相手の胸に熱い感情をどれだけぶつけられるか、そうだ、行くんだ。

存分に歌わねば

 誤解がないようにいっておかねばならないことがある。日本を離れてぼくはパリをめざすのではない。パリのマーケットを与えられた歌手として、欲求不満のかけらも残らないほど、存分に歌わなければならないと思うだけなのだ。
 およそ一ヵ月近く、ぼくは日本でまったく白紙の状態となる。その代償はあまりにも大きい。その大きさがわかるのは、いつもパリから帰って翌日からの過酷なスケジュールに目を通す時である。だから、向こうで時をむだには出来ない。売れなければいけないとなおさら思う。日本は日本、パリはパリである。与えられた場で同じような歌手としての時を過ごす、そうありたい。

仲間を通しぼくを

 ぼくが渡欧している間に、ぼくの友達を紹介しようと思う。自分自身ではみつけられない沢田研二を彼らはみつけてくれるだろう。
 まず井上バンドのリーダー、井上堯之さん。彼とはPYGを作った時に知り合った。音楽を男一生の仕事に出来るとぼくに思わしてくれた数少ないの一人である。よく井上宅には泊まりにいったものだった。その頃、ぼくは一人住まい。ある夜遅く、
「今日は泊まらずに帰るよ」
 と中野のマンションにもどった時のことだ。エレベーターで10階までたどりつき、さて自分の部屋に一歩を向けた時、ポケットから部屋のカギがポロリと落ち、それは運悪くエレベーターのすきまをもぐってヤミ深くのまれていった・・・・。ルルルッルルルッ、ガシャ。「あ、井上さん、やっぱり今夜泊めてくれますか?」
 そんな時にも笑って迎えてくれるやさしさが井上さんにはあった。
 次は、タイガース時代から、ぼくのヘア・デザイナーを担当してくれている千歳烏山「たぶろう」のママ・安田さんだ。彼女は大のロック好き、それもヘビーなやつがお好きときている。後でわかったことだが、内田裕也さんとも大の親友であったらしく、店のBGMももちろんロック。
「あなたの歌でも甘いのは嫌いよ」
 とやられてしまう。ぼくの歌手生活10年の歴史をしっかりした目でみているにちがいない。
 TBSの久世光彦プロデューサーについては多くを語るところではないだろう。「悪魔のようなあいつ」から「サンデースペシャル」まで、プロの立場でぼくをどうとらえて来たのか興味深い。あえて彼についてのべれば、クールな人だといわれている久世氏が、ぼくには情熱家にうつってしかたがないということだ。
「いくつかの場面」というぼくの歌がある。ぼくのまわりのたくさんの人達、たくさんのドラマ、歌はいま、一層リアリティーをまして来る。

生のステージで生のぼくの歌を彼らにみて欲しいと思っていた。
これがこの当時、パリに行くにおいて一番の願望だったんでしょうね。
歌手生活において一番好きなこと、「LIVE」ができないまま、やがてパリを恋人に例えたならば、その関係が自然消滅してしまった・・・みたいな。ちょっぴりさみしい別れ方。。

戻ってこられた後くらいのラジオ番組のようですね。

「愛をもとめて♯パリ録音」1976年4月14日放送

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