第35章 新曲
話した人 沢田 研二<1976年9月10日>
クールに自作した
空は青く高く頭上に広がる。いよいよ秋である。六本木・鳥井坂ガーデンで「ジュリー・ロックンツアー’76」を打上げてから11日が過ぎた。季節が移るようにひとつが終わり、ひとつが始まる。
今日発売されるぼくの新曲「コバルトの季節の中で」もそのひとつだろう。作詞小谷夏(「悪魔のようなあいつ」でお世話になった久世光彦プロデューサー)作曲沢田研二というコンビ。
ぼくはあくまで歌手
ぼくの自作の曲がシングル盤のA面に起用されたのは初めてである。そのことで特別に意識はしていないが、心配であることにはちがいない。
歌を作るのは好きだ。いままでLPにおさめた曲もいくつかある。だがレコードの売上げを気にして作るものではない。(もちろん売れたらすばらしいだろうが)ぼくらが売るために歌を作っていたのであれば、そっぽをむかれてしまうにちがいない。
売るためのパターン曲があるとすれば、それよりも新しい曲にチャレンジするほうがどんなにかいいし楽しい。だから歌を作るときにはあまり考えない。実際この曲がいいのか悪いのか、となればぼくはわからない。
今回の「コバルト・・・・」も、詞に必要以上の思い入れをせず、非常にクールに作った。それがいいとぼくは思ったからそうした。
新譜の作曲をしたということでシンガー・ソング・ライターの仲間入りとか、それに類する志向性をもった歌手として思われるのであれば、それはちがう。
ぼくは自分で自分の歌を作ることに意味をもっていない。その意味のわくの中でぼくのスケールが小さくなるのはいやだ。ぼくは歌っていればいい。だれが作った歌でも、よければそれでいい。
「コバルト・・・」にしても、ほかの候補作が多く本当はレコード作品になるとは思ってもいなかったことだ。ぼくにとって偶然に近いことであった。むろん宣伝対象として作曲沢田研二は、キャッチングになる要素かも知れない。
だがそれはそれだけのことで、そのコピーライトでいままでと売上げ枚数が変わるとも思われない。結局中身の問題になってくる。そうでなければさびしい。
ぼくはいろんな歌を歌ってきた。デビューしたての頃はプレスリー時代の後期で、ロックンロールに刺激された。ビートルズの登場は月並みではあるが夢と勇気を与えてくれた。タイガースからピッグへ変わった時は、自分の音楽性を意識させられた。テレビ番組で他人の歌謡曲も歌った。あらゆる音楽状況の中でぼくは歌ってきた。そうしてみてもぼくに語るべき音楽の系譜はない。
楽しければいい
いわゆるポップスというものを中心に歌ってきたのだが、ジャンル別にぼくをみたことがないのだ。その時代、その位置にいたという足跡がぼやけてみえる。
ただ歌っていたことは確かだ。現在のぼくをみても、コンサートシステムのステージ活動と歌謡界的立場とポップス的音楽要素等々。評論家めいた自己分析をすればまことに奇異になる。
しかしぼくにはちっとも不思議じゃない。ぼくの歌は自分の主張とかメッセージとしての歌よりも、ストレートに娯楽としての歌であった。楽しければよかった。そこにジャンル別はない。
足跡が明らかに
ぼくらはミュージシャンと呼ばれたりアーチストとも呼ばれたりする。だがぼくは音楽を研究している芸術家ではないkとおを断っておく。あえていうならば芸能家であろう。
大上段に〇〇の旗手といったものはなくていい。いいことをいっているだろう、いい音楽をやっているだろうというおしきせではなく、聞く人とお互いに楽しみたい。仕事としてぼくは歌っているにはちがいないが、歌は楽しまなくちゃいけない。
ぼくはこれからも歌っていくだろう。歳をとっていくだろう。そしてやがて・・・・いつか歌わなくなる時が訪れる。
その時にぼくの歌は最終的にどんな歌だったのか、静かにみつめてみたい。いまみえない自分の足跡が明らかになる。一本の線になるのか、何度か曲がったものになるのか、それを名づけて何と呼ぶか・・・・・・振返ってぼくの歌にひとつの良心がみえれば、それでいい。そんな歌を歌いたい。
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